2013.12.22
【Webマガジン Vol.7 – Dec., 2013】無線通信の常識
WEBマガジン
無線通信の発展
世の中には無線通信システムがあふれてきている。携帯電話やWiFi、Bluetoothに赤外線通信(IR-DA:Infrared Data Association)等々様々な無線通信システムが我々の周りにある。さらには、センサー用の無線通信システム等の様々な新しい無線通信システムが検討されている。近い未来には、夥しい数の無線機が私たちの周りに存在することになるだろう。まさしく、「ユビキタス」の世界がやってくる。こんなことは、私が無線通信の世界に飛び込んだ頃は予想もしなかった。その当時、無線といえば、ほとんどの人がラジオあるいはテレビを思い浮かべていたと思う。私も無線通信の世界に入って初めて、「自動車電話」や「携帯電話」なるもののサービスの存在を知った。
岡山大学附属図書館時計台
非常に高価なため、利用しているのは一部の人だけであったため、普通の人が知らないのは無理もないことだった。その頃と比較すると、現在は街中の風景が大きく変わった。街中で歩きながら電話をするなんて昔は考えもしなかったが、現在では周囲から煩がられることはあっても、話すこと自体にはほとんど躊躇していない。一方、第二世代の携帯電話では40kbps であった通信速度は、LTE (Long Term Evolution)では数百Mbpsまで高速化された。第二世代移動通信の研究がなされていたころは、伝送路でマルチパスフェージングが発生するため、高速化が困難だと考えられていた。マルチパスフェージングを克服する技術は知られていたが、実用は困難だというのが当時の国内の常識だった。ところが、今ではマルチパスを利用して上記の高速通信を達成している。このように、一昔前に常識だと考えられていたことが、現在では完全に覆された。技術が進歩したといえばそれまでだが、常識が覆されるのを見るのは、研究者・技術者としては大変に痛快である。ただし、自分の常識が覆されるときは、心穏やかというわけにはいかない。
アンテナは多いほうが良い
高速通信を達成する技術として現在、MIMO (Multiple Input Multiple Output)[1]という技術が注目されている。基本的にMIMOは送受信機に複数のアンテナを用い、複数の信号を空間で多重する技術である。現在、LTEでは送信アンテナ2本、受信アンテナ2本を用いたMIMOが利用されている。私がMIMOという言葉に最初に接したのは、ある会議でAT&Tの研究者が研究成果を発表しているときである。数百kbpsが高速通信と考えられていた当時に、数十Mbpsを達成する技術としてMIMOが紹介されていた。このとき、正直な私の感想は「技術としては目新しくないけど、見せ方がうまいなぁ」というものだった。今思えば、私の不明を恥じるばかりである。このような感想を持ったのは、上記の発表で利用されている技術の本質的な部分は、その数年前から日本国内で盛んに検討されていたからである[2][3]。実際、二つの信号を空間で多重し、分離をするという実験までされていた。その技術は干渉キャンセラと呼ばれ、混信した二つの信号を分離するものだった。
この技術は、想定をしていない信号が希望信号と同時に受信された時、所望信号の通信品質を改善するために干渉を除去するというアイデアに基づいていた。それはAT&Tの数歩先を行く先駆的な研究で、私も大変に感銘を受けた。ただし、そこには「混信は避けるべき」という常識がその裏にあったように思う。実際、無線の研究者にとって、混信は特性劣化を引き起こす、非常に厄介なものである。これは、移動通信だけでなく衛星通信でも地上無線中継網でも同じである。これに対し、MIMOでは、この常識にとらわれず、敢えて複数のアンテナから異なった信号を同時に送信し、通信速度の高速化を図る。そこに常識を覆す、考え方の転換があったように思う。自分の常識が新しい技術によって否定されるとき、人はその新しい技術の欠点を探す傾向があるようで、私の場合はそれが上記の「技術としては…」となって現れたのだと思う。
その後、MIMOは無線通信における物理レイヤの研究の中心的存在になった。私も改心し、MIMOの研究を始めた。そこで、常識とは言わないまでも、普通とは異なったアプローチの研究をしたいと考えた。(シングルユーザ)MIMOで多重される信号数は、受信アンテナ数以下とされることが多い。幾つかの理由があるが、送信側でプリコーディングを用いない場合、受信アンテナ数以上の信号を多重すると受信機での復調が困難になるのが一つの理由である。但し、原理的に多くのアンテナから信号を送信した方が、通信容量は増大する。そこで、受信アンテナ数以上に信号を空間で多重するというアプローチをとることにした。そこで様々な研究の末に、仮想伝搬路というアイデアに辿り着いた。
図:プリコーティング実験風景
送信機は従来と同様の構成であっても、受信機において仮想伝搬路を用いれば、仮想的に受信アンテナの数を増加させられる。受信アンテナが増えれば、線形のMIMO検出器を用いることで比較的簡易に信号検出が可能になる。QPSK変調を用いたMIMO-OFDMシステムにおいて受信アンテナが2本であっても、仮想伝搬路を用いれば、10多重された信号をフロア誤りなしで復調できることを明らかにした[4]。この結果は、計算機シミュレーションによって得られたものである。現在、AT&Tの研究者のようにハードウェアで実装し、実験により特性を検証したいと考えている。
もう一つ、私が「難しい技術」と考えていたのが、プリコーディングと呼ばれる技術であった。プリコーディングとは伝送路のインパルス応答を送信機に送り、送信側で予め送信信号を加工して送信する技術である。原理的には特に困難な技術ではないのだが、実装が困難だろうとずっと思っていた。企業に居たころ送信側での適応等化の研究を行っていた。実際に、ハードウェアで実装して特性を評価していたが、なかなか思ったような結果が出ず苦労をした。また、W-CDMA (Wideband-Code Division Multiple Access)の必須の技術である送信電力制御の実装に私の同僚が苦労しているのを見て、「やはり送信側信号処理は難しいな」と感じた。一方、MIMOにはプリコーディングを必須とするマルチユーザMIMOという技術があり、システムスループットを大幅に改善できることが知られている。そこで、この技術を実装するプロジェクトを大学の同僚と企画した。私は上記の経験がトラウマともなっていたため理論的な研究だけで、実験には直接かかわらなかった。このプロジェクトのメンバー特に、京都大学の村田先生のご尽力により、図に示すようにプリコーディングの実験に成功した。送信側信号処理の困難を簡単に解決する技術が確立したとまでは言えないが、「困難と考えられていたのは昔のこと」と言える日が近づいていると感じている。
干渉がなくなる日がくる?
通信速度を高速化するには、上記のように数多くのアンテナから信号を送信するのがよい。多くの信号を送信すれば、混信を引き起こす可能性が増える。MIMOの送受信機対であれば、混信した信号が送受信されることを了解しているため、通信が可能になる。だが、いかなMIMO受信機を適用したとしても、見ず知らずの送信機からの信号は、通信品質の劣化を引き起こす。この混信による通信品質の劣化が、無線通信の困難の一つというのが無線通信の常識である。
しかし、無線通信の潜在的な魅力は人間の英知を総動員させ、多少の困難を乗り越えさせると楽観視している。すなわち、上記の常識が覆される日がいつか来ると期待している。例えば、プリコーディングはその有力候補である。これらの技術の進歩により、いつの日か「干渉による劣化」がなくなり、「干渉が通信を劣化させる」という常識が覆されること願っている。
文献
[1] G.J. Foschini and M.J. Gans, “On limits of wireless communications in a fading environment when using multiple antennas,” Wireless Pers. Commun., vol.6, no.3, pp.311-335, 1998.
[2] H. Yoshino, K. Fukawa, and H. Suzuki,“Interference cancelling equalizer (ICE) for mobile radio communication,” IEEE Trans. Veh. Technol., vol.46, No.4 , pp.849-861, 1997.
[3] H. Murata and S. Yoshida, “Trellis-coded cochannel interference canceller for microcellular radio,” IEEE Trans. Commun., vol.45, No.9 , pp.1088-1094, 2002.
[4] Shogo Yoshikawa, Satoshi Denno, and Masahiro Morikura, “Complexity reduced lattice-reduction-aided MIMO reciever with virtual channel detection,” IEICE Transactions on Communications, vol.E96-B, no.1, pp.263-270, Jan. 2013.